夏が去って秋がきた。
涼しい風にのってやってくる金木犀の香りがたまらなく心地いい。
また徒然印象的だったことなど書きます。
長いです。
_
クロヌマタカトシ展@sahan
以前より尊敬する木工作家さんのクロヌマさんの個展が近くであるというので訪れた。
数年前の個展を訪ねた時に見た、一角獣の彫り物がとても印象的で、どこかしら自分のなかに指針とするものとしてあったのだけれど、
今回の個展で見た、鹿の彫り物はそれを越えてきた気がする。
流木のなかにある、自然が作った表情を活かしながら、そのなかに鹿を彫り込んでいるもの。
鹿と正面から向き合って、目が合うと、
そのなかに吸い込まれそうな感覚になった。
本物の鹿と目があったような錯覚をおこすような、
剥製の鹿よりもより本物の、命を感じる目をしていた。
数年間で、より高いところまで来てはる、日々の積み重ねを感じて、
より尊敬の念が強まり、そして励まされたように思う。
素材と向き合って、考えて、苦しんで、それでも手を動かして、そうした過程を繰り返してきたのだろう。毎日頑張らな。
クロヌマさんのものに限らず、「良いもの」の中は身がきゅっと詰まっているように感じる。
物理的に詰まっているんじゃなくて。
その作品に向き合う時間や精神が重ねられる毎に中が充足されるような。
そういうものに出会うと凄くパワーを貰える。
素敵な作品を見せて頂けて感謝。
_
本当の意味で頭の良い人
以前ここにも書いた、同じクラスの感覚の良い女の子と相変わらず陶芸のことについて話す。
その子は陶芸に対してとても誠実で、まじめで、自分は何をしていくべきか本を読んだり一生懸命考えたり向き合うことをしている。
私もそういう風にまじめに考えることを好むけれど、なかなか自分と同じくらいの価値観でそういう話が出来る子が見つからないからその女の子とはとても楽しく話をさせてもらっている。
8つも年が離れているからかよく相談してきてくれて、なんとも可愛い存在。
今まで出会った人のなかで、
本当の意味で頭が良いって思う人(偉そうにすみません)って数人くらいしかいないけど、この子もそのなかのひとりだなと思う。
ちゃんと物事に向き合って、深く考えられる人が私は好きみたい。
その子と話していて熱が高まって、課題以外に自分の作品を自主的に作って、決めた日にお互いの作品講評をしていくことになった。
その提案をした時の反応が凄く嬉しそうで、ほんとなんとも可愛い存在。笑
一人でも価値観を共有できる人がいるというのは有難いことだなぁと感じる日々。
_
土と火による創造
これまた尊敬する友人に誘ってもらって、「風の旅人」という本の編集長さんが企画する、陶芸家とのトークショーへ。
とっても良かった。
焼き物への目線が変わった。
見失っていた自分の進むべき道を思い出させてもらえたようだった。
トークショーでは高野山で作陶されている師弟関係のふたりがお話してくださった。
お師匠さんの方は山小屋にいそうな白髭の生えた、ガタイの良いおじいさんで、
お弟子さんの方は腰の低い、不思議な雰囲気を持つ優しそうなお兄さんという感じ。
お二人は高野山という土地から生まれる焼き物を大切にされていて、
土も、窯に入れる薪も、その地で採れるものを使っている。
同じ杉の木であっても、その土地の空気や水を得て育った木には、その土地の空気が含まれているのだと。
穴窯という窯で焼き、釉薬はかけず、薪が燃えて灰が被ることで生まれる自然釉で仕上げている。
お師匠さんの方は場合によっては3回も焼きに入れるという話を聞いてびっくりした。
穴窯は1回焼くのでさえ2日〜3日寝ずに火の番をしなくてはいけないのに、それを3回分やるのかと。
でも、だからこそこの風合いになったのだろうなと感じられる迫力があった。
話の折に「エキサイティングに生きる」という言葉が出てきて、窯を焚くことはエキサイティングなのだと。
釉薬になる灰が溶け出すのが1250度以上で、穴窯でだせる最大温度は1300度程、
その僅かな隙間を保つには火を焚き続けなければならない。
その時のお師匠さんの様子はお弟子さんによると鬼のようなのだと。そして焼きが終わると抜け殻のようになっていると。
それがなんとなく想像できて、ああ凄い世界だと、どきどきする。
「白い透明な光の中から"誕生"してくる」
司会である編集長の方がそう言って、白い透明な光とは高温になった火のこと。
この人たちの焼き物は単なる焼き物ではなく、命を帯びた焼き物なのだと教えてくれた。もはや神聖なる世界だ。
そんな焼き物だから、他の器と一緒に食卓に並べた時に他が負けちゃう、とも仰っていて、それも納得。持っているエネルギーが違う。
お弟子さんの方も興味深いことをされていて、
その人は自分の足で土を取りに行っていた。宝探しの様。
和歌山に生まれたから和歌山のもので焼き物を作りたい。
その想いから、どの辺りにどういう土があるのかという調査から始まり、あちこちの山のなかを求め歩いていると。それは、人工的に管理されていない、自然の恵みそのままを保った土の見せる表情に感動があるからこそ。
更に土を水簸するなど、粘土にする過程も自分でやらなくてはならない。
ろくろでの成形は焼き物をつくる過程の全体の1割くらいだとお話されていて、
私はその1割に今8割くらい力をかける感覚で作っていたけど、
素材の調達や窯焚きにも重きを置くと、確かに成形なんてほんの少しのことだと思えてしまう。
私たちの学校では主に提供されるのが扱いやすい粘土一種類だけで、
この人たちの土に対する姿勢を見ていると、まだ自分は何も素材を知らないのだと気付かされた。
そもそも自分は造形どうこうというよりも土という素材に興味があってここにきたのだから、それを知らなくてはいけない。土のなかに潜んでいる沢山の神秘に出会いたい。
沢山のものを見るうちによく分からなくなっていた自分の行くべき道を指し示して貰えた出来事のようで、
それに誘ってくれた信頼できる友人や、風の旅人佐伯さんが関わっているところからも確信を得ている。
その先に何があるのかは、自分で得られるように励まないと。
_